至上のブログ ~瑠々に魅せられて~

主にJuice=Juiceの段原瑠々さんに関連する内容です。2014/1/5までは昔の「愛に観せられて」の内容をインポートしています。

愛と至上の輪舞(ロンド)

今日で「アイドル」について書くのは最後にしたいと思う。今週は本当にずっと「アイドル」というものについて考えてきた。そして、一つの到達点に辿り着いたからだ。それは「愛」だ。

「懺悔」

まず最初に懺悔したい。それは「アイドル」を「アイドル」として愛する人に対してだ。
私は5/22(火)の日記で、ある主張をした。それは「アイドルという概念を捨てろ」というものだ。なぜその主張に至ったかは、実際の内容を読んで欲しいが、それはまさしく「アイドル」を「アイドル」として愛する人達の「愛」を否定するものだからだ。
そこには、その「愛」に対する愚かな誤解がある。

「情報化社会の今の世の中では「アイドル」は生きにくい」とか、「今の世の中には「皆を導く者」が必要だ」とかいった主張は、それが正しいにしろ間違っているにせよ、そもそもその「愛」には何の関係も無いことなのだ。
そこに「アイドル」がいて、その「アイドル」を愛するという行為は、決して誰にも否定されるべきことではないのだ。
「アイドルにハマってニートになった」 …それは、その人に対して親なりが注意すればよい。それでも我慢ならないなら政治家でも教育者にでもなって指導すればよい。
「コンサート会場でレス貰うためにボード出した」…その行為に対して止めろと言えばいい。「レスが欲しい」という気持ちまで否定することはできないのだ。
だが、私はさもそれが「アイドル」を愛するから起こることかのように主張した。もちろん傾向的に、そういった状況が多いのも事実だ。
でもそれは本質的に「アイドルを愛すること」とは関係ない。その愛は純粋なものだ。

私がやったことは、「アイドル」という大きな城の中で皆がその対象と楽しく踊っているのに、外から「そんなことはやめろ」と独りで叫んでいるようなものだった。そう思うのも叫ぶのも自由だが、中で踊っている人達にとってはそれは「雑音」でしかない。その城は決して崩れるものではないのに…

そして、その主張に至った本当の理由は… その城の中にいる「ある人」に、そこから出てきて欲しいという私の個人的な欲望のために過ぎなかった…


「愛する」という行為に、本来、優劣も上下も無いのだ。私は「大いなる愛(Gran Amore)」で愛せよと言った。では「アイドルを愛する人」の愛は、それではないのか? 私は「ミキティの方が健全だ」と言った。では、その人達の愛は健全ではないのか?

違うだろ

「疑似恋愛」という言葉がある。私のような「エセ愛語り」は都合のいいようにこの言葉を利用する。実際の男女の恋愛を健全とし、それ以外を下等なもののように否定するために…

実際の男女の恋愛でも、形だけの場合がある。ならば「アイドル」が作りだした夢の世界での「愛」の方が、至高の愛の場合だってあるはずだ。

マネキン人形を心から愛する人の愛は偽物か? 宝塚歌劇は女性が男を演じているが、そのファンの男役に対する愛は偽物か? 私はよくハロプロを「家族」というけど、実際の家族でもないのだから、それは疑似ではないのか?

まったく愚かだ… 「愛する」という行為は、全てにおいて自由で平等なはずだ。それがその対象に、純粋に向かうのであれば…

「アイドル」への愛が「単なる自己満足愛」だというのは大きな誤解である。もちろんそういったケースに陥る場合もある。それとそこから生じる愚かな行為については、個別に非難すればよい。その愛とそれを混同してはならない。

「告白」

では、こんどは私の愛についての告白をしよう。「愛」というのは私の人生の中での一つのテーマだ。何故ならそれは人間が創りだした最も素晴らしいものだと思うからだ。私は「愛」というものが知りたい。「愛する」ということはどういうことか知りたい。

これまでの人生において、様々な状況で私は何かを愛してきたように思う。それは人であったり、物であったりしたと思う。でも… まだまだ愛とは何か分かっていないようだ。それでもずっと何かを愛そうとしている。それを知るために…


私は6年前、一人の少女に出会った。そしてその子を愛した。いや愛そうとしたというべきか… その子は出逢ってすぐに「アイドル」という城に入ってしまった。私は連れられるがままに、その場所に行った。
そしてずっと彼女を愛し、寄り添ってきたつもりだ。その子は、その城の中で歌い踊り、たくさんの人に愛されてきた。でも、私はその城の中に入って、彼女と一緒に踊ったことはない。なぜなら、それが許されるのは「アイドル高橋愛をアイドルとして愛する人達だけ」だからだ。
だから、私はずっと城の外で、彼女が多くの人に愛されるのを見ながら、その歌う姿を踊る姿を愛でてきたように思う。

「アイドルを愛する人」には信じられないかもしれないが、私は本当に彼女に性的な欲望を持っていない。恋愛の対象でもない。じゃあそれは「親子」のような愛か、それとも「パトロネージュ」の愛か… それらは近いと思うけど、違うようにも思う。
私は彼女の紡ぎ出す歌を、表現を、存在そのものを、やっぱり愛しているように思う。そんな愛もあるのではないかと思う。

だが、彼女は今、「アイドル」という存在だ。ならばそれを全うしなければならない。こちらが「ルール違反」をしてはいけないように、彼女もまた「ルール違反」をしてはいけない存在だ。
そして彼女は今まで、忠実にその「ルール」を守る存在だった。

だが彼女は昨年の夏、その城から出てきた。そして私が待っている場所に来て、一緒に踊ってくれた。そのとき私は、夢の世界にいた。「アイドル」を愛する人が、その城の中で夢みるように…

そして彼女はまた、その城に戻っていった…

「アイドル」高橋愛を「アイドル」として愛している人に対しては「無粋」極まりない願いだが、そんな私が、もう一度その城から出てきて欲しいと願ってはいけないかな? それは「ないものねだり」だが、でもそんな風に愛してはいけないかな?

彼女は時折、その城の窓からこちらを見る… 何故なら、この場所は、彼女が今も昔も、ずっと愛している場所だからだ。…ならば私も待とう… 今までもずっとそうだったのだから。それが愛という名の人を愛した宿命ならば。

最後にある歌の歌詞を書きたい。それは今まさにこの場所で、彼女が愛している人が歌っている歌だ。問題のある行為だが、今日は書きたい。

その瞳が 胸を焦がし 眼差しが 突き刺さる
息さえも 俺を捕らえ 凍った心溶かす
ただの少女の筈なのに 俺の全てが崩れる 
たった一人の人間なのに 俺を震えさせる
お前の生命(いのち)奪う替わり
生きたお前に愛されたいんだ
禁じられた愛の禁忌(タブー)に
俺は今踏み出す
心に芽生えたこの思い 体に刻まれて
蒼い血を流す傷口は お前だけが癒せる
帰してやろう その生命(いのち)を
その時お前は 俺を忘れ去る
お前の愛を勝ち得るまで
追いかけよう…
何処までも追いかけて行こう…
愛と死の輪舞(ロンド)
『愛と死の輪舞(ロンド)』/宝塚歌劇エリザベート』