至上のブログ ~瑠々に魅せられて~

主にJuice=Juiceの段原瑠々さんに関連する内容です。2014/1/5までは昔の「愛に観せられて」の内容をインポートしています。

演じるということ

現在、新宿ではハロプロ公演おじぎ30度 オン・ステージ』が行われていますが、さすがに平日に東京で行われる公演には参加できないので参加された方のレポートを見て、どのような内容だったのか確認しております。

その参加された方のレポートの中で、非常に興味深い内容があったので紹介します。

演技というのは、自分とは別のなにかを演じることではなくて、役と自分の重なる部分を膨らませて、重ならない部分をそぎ落とす作業なんです。だから、自分にないものは表現できないし、表現できたことは自分の中にあるものなのです。それが普段見せている自分とは違うということは往々にしてあります。

愛ちゃんは、こういうシチュエーションでは、自分は同考えるかどう行動するか、自分のイメージする木下花梨はどう考え行動するかを考えて、試行錯誤して役を作っていきます。だから、高橋愛は木下花梨ではないけれど、木下花梨は高橋愛なのです。


銀河旋律〜てってけの今日のタメゴト〜 より引用
http://d.hatena.ne.jp/tetteke/20080228/1204160492

うーん、奥が深い内容だ。これは私自身は「演じる役を自分なりに解釈して、その解釈を元にそれを表現することが演技である」と理解したのですが、よろしいでしょうか?(もしこの認識が間違っているのであれば、指摘していただければありがたいです)

これは例えば、複数の画家が同じモデルの絵を描く場合でも、画家によって表現方法は違うので出来上がる作品も違うものになるというのに似ているかもしれない(描かれるものは同じだが)


このレポートを読んで思い浮かんだのが、私が最近よく観劇している宝塚歌劇の場合ではどうか、ということ。

現在、宝塚歌劇ではバウ・ワークショップとして、同じ内容を違うキャストで実施するという公演を各組ごとに行っている。そうすると、当然、主演者が変わればそこで演じられる役から受ける印象その他も変わってくるわけです。もし、それが演出家の指示通りに固定された役柄をただそのまま演じるというのであれば、役変わりの意味がないといえるでしょう。

「ワークショップ=演習」というタイトルからも分かるように、この一連の公演は若手中心に実施されるもので、それぞれ抜擢された者達が自分の表現を磨く場として実施されている側面があります。そこで与えられた役に対して、自分なりの解釈をして自身の表現を創り出すというところに意義があるものだと思う。

これは、同じ事が本公演でもいえます。例えば、宝塚歌劇では必ず本公演中に「新人公演」と呼ばれる「研7*1」までの生徒で実施される公演があります。(チケット代は本公演の半額になる) 当然、それに参加する生徒達は、普段は通常公演で本役さんの演技を見ているわけですが、それを参考にすることはあっても、そのままコピーしたように演じるようであれば、やはりそれは「演技」とはいえないのではないか、と思う。

さらには、実際の本役の方でも公演の最初と終わりの方では、全然その演技内容が違っているということもあります。舞台をあまり観に行かない人が「同じ公演を何度も観に行って面白いの?」という疑問を持たれることがありますが、実際には同じ公演でも役者さん達は日々成長をしていて、日ごとに演じる内容も変わっていくということがあるのです。

そういったところを感じ取るということもまた、観劇の醍醐味ではないかと思います。


そしてそういった「演じる」という表現において、抜群の感覚を持った人というのが、世の中には存在します。例えば、先日ここで紹介した花組・娘役の野々すみ花ちゃんもそうです。普段の自分とは全く正反対の性格を持った役柄を、自分なりの解釈の上で演じきってしまう。…最近見たスカイステージ*2トークショーでは、『アデュー・マルイセイユ』新人公演のヒロインを演じるために、図書館で当時のフランスの状況がどうだったか調べた、というようなことを話していました。

これは、てってけさんの言を借りれば、役柄を解釈してそれを表現するために「自分の中にあるもの」を増やすということに繋がるのではないでしょうか… 高橋愛宝塚歌劇の舞台や、他のミュージカルをよく観に行くというのも、その中から自然に「自分の中にあるもの」すなわち「表現力」につながるものを増やすということになっているのではないかと思う。

そして、高橋愛の表現は、それが歌にせよ演技にしろ、決してどこかから借りてきたものではなくて、自分なりの解釈をして自分自身のものとして外に放たれるというところに魅力があると思っています。そしてその表現が、時に周りを圧倒するようなことがある。

私はそういう表現が出来る人に、たまらなく魅力を感じます。それが野々すみ花であり、高橋愛であるということです。

今回のハロプロ公演は私は観に行けないけれど、おそらく今回の公演でも高橋愛は、ここまで書いたような内容で舞台に立っているのではないかなあ、と想像しています。そしてそれを嬉しく思っています。

だから、高橋愛は木下花梨ではないけれど、木下花梨は高橋愛なのです。

…うーん、やっぱり高橋愛が表現する「木下花梨」を観たかったねw  今になって、ちょっと残念な気持ちだw

*1:入団して7年目までの生徒

*2:宝塚歌劇CS放送